主の御名を呼ぶ
多くの日本人にとって、キリスト教は西洋的なもので、東洋人の肌に合わず、また余りにも知的、神学的で近づきにくいものと考えられています。しかし、キリスト教は、仏教と同じようにアジアの一角で生まれた宗教であり、その本質は非常にわかりやすく単純なものなのです。キリスト教の救いの道をひと言で表現すると、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエル3:5)ということです。「ただ、主の御名を呼ぶだけで救われる」というのは、仏教の浄土宗でいう「極楽往生のためには、だが『南無阿弥陀仏』と仏の名を称えさえすればよい(称名念仏)」と似ていることに気づかれると思いますが、正しくは、浄土宗がキリスト教に似ているのです。
称名信仰の起源と歴史
聖書における称名信仰の起源と歴史は、仏教におけるよりも、はるかに古いものです。
仏教の歴史の中で、称名念仏を万人救済の行として強調したのは、中国の北魏時代の曇鸞(紀元476-542年)という僧であると言われていますが、わが国では、ご承知のように浄土宗の祖である法然(1133-1211年)がこの信仰を受け継ぎました。
聖書の中では、旧約聖書の創世記第4章26節に、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と記されていますが、これは紀元前4千年ごろのことです。
そして、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」と、救いの具体的な方法としての称名を明らかにした預言者はヨエルは、釈迦(紀元前483年頃)より少し前の人物です。
御名を呼び求める人々
新約聖書の使徒言行録11章26節に、イエス・キリストを信じる人々が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、シリアのアンティオキアにおいてであると記されていますが、これは1世紀の半ば頃のことです。それまでは、イエス・キリストを信じる人々は「御名を呼び求める人々」と言われていました(使徒言行録9:14など)。
ところが、アジアで生まれたキリスト教が、ヨーロッパを経由している間に、その文化や伝道の影響を受け、最も大切な称名信仰が失われ、西洋的なものが入ってしまいました。
ヨーロッパのある国から来た神父が、「称名はわたしたち西洋人には不快なもののように思われます。そのことによって、わたしたちは心理的な実に西洋的な人種だと思い知らされます」と告白していますように、このような西洋の感覚が、非常に東洋的な「称名」という行為を、キリスト教の教理から除外してしまったのです。そして、「御名を呼び求める人々」と言われたクリスチャンは、いつの間にか「御名を呼ばない人々」となってしまいました。ヨーロッパやアメリカ経由のキリスト教を受け入れた日本のクリスチャンたちも同様です。
原型のキリスト教が復活
しかし、この「称名」というキリスト教の最も大切な信仰は、長い世紀にわたり地下水のように流れ続け、少数の人々によって受け継がれてきました。そしてこの時代に、アジアの国日本でその地下水が噴水のように湧き上がり、川となって流れ始めたのです。オリジナルの、最も聖書的なキリスト教の復活です。
「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」(出エジプト記20:24)と約束された神は、宇宙を創造された神であり、人間に対する愛のゆえに、一人の人間となって歴史の中に現れた神、キリストです。今も生きておられる神、名を呼べば応えてくださる神です。
聖イエス会の教会では
聖イエス会の教会では、日曜ごとに人々が集まり、神を賛美し、祈りをささげ、主の御名を呼んでいます。神はその叫びに応えて、ご自身を現し、人々に永遠の命を与え、その心を清め、病気をいやし、すばらしい救いのみ業を行っておられます。
幼いときから称名信仰の中で育ってきた日本人にとって、神の御名を呼ぶことは難しいことではありません。あなたも、教会の礼拝に参加し、共に神の御名を呼び、霊魂の救いを体験し、喜びにあふれるすばらしい人生を築きましょう。
「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
神は言われます。「わたしは主、これがわたしの名である」(イザヤ42:8)。